音楽教育について考える           満嶋 明


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第2章:バッハをピアノで弾く

 

  ●さあ、こんどはテーマをバッハ演奏に絞って考えてみます。
   これまでに述べてきた「勉強」というものが具体的にどんなことを指すのかを
   皆さんが理解するために。
 
  ● 第2部の目次
 
    1 バロック時代の楽曲について
    2 ピアノでバッハを弾く?奇妙だね
    3 さあ、あなたが勉強をはじめる番です
       (1) 参考書を読む、(2) レコードを聞く、(3) 調べる、
       (4) 絵画と建築と文学を調べる、(5) やっと演奏の練習です。      
    4 バッハをピアノで弾くことの本当の意義?
    5 注釈本は見本棚にならべてある陳列品!!
    6 ピアノで弾いたバッハをレコードで聴く?
    7 ピアノは打楽器?
    8 バロック音楽の教育と理念
    9 正しい解釈(分析)は正しい演奏になる?
   10 バロック時代のオペラについて
   11 バッハをピアノで弾いてみよう!!
 
   付録1)ピアノコンクールについて
   付録2)楽譜の読み方について
 
   とりあえずの終りに…………
 
 

1 バロック時代の楽曲について  【第2部の目次に戻る】

 バロック時代(1600頃〜1750頃)の音楽の特質は、対比的な美であると言われています。それは同じ時代の絵画をみても理解ができるでしょう。光と影、大と小、強いと弱い、等など。アンサンブルをみてもトリオというような小編成(フルート、バイオリン、通奏低音などの組み合わせ)から大きなコンチェルトグロッソもありますし、チェンバロで大きい音量用の鍵盤と小さい音量用の鍵盤で強い音と弱い音とを弾きわけていたことからも理解ができます。バロック時代に作られたパイプオルガン(パイプとわざわざつけるのは日本だけですが)にはクレッシェンドペダル(電子オルガンについているような強弱を変えるペダル)は無かった事実を知るべきです(後の時代のオルガンにはこのペダルが装備され、ロマンティックオルガンと呼びわけられるようになりました)。つまり、その頃の音楽は、対比的に演奏されることが好まれ、またそれが様式としても重要だった訳です。

 さて、チャンバロでは強弱が弾きわけられたでしょうか?答は、「はい」です。複数の鍵盤を持つチャンバロでは強いか弱いか、については可能でした。しかし、一段しか鍵盤のないチェンバロではどの音をどんな風に弾いてもすべて同じ音量でしか鳴りません。そういう楽器なのです。逆に言えば、例えばバッハのインヴェンションで、すべての音を全く同じ音量で弾いてもちゃんと音楽になるように構成されている、のがバロック音楽と言えるのです。それなのにを、ある有名な大御所先生が、もっとクレッシェンドで、とか、そこは右手がテーマだから右手の音を強くして、とか生徒たちに教えているのです。自分が演奏会でそうゆう風に演奏するのは勝手ですが、今から音楽を学ぶ生徒たちにそういう奇抜な事を教えるのは罪だと言えましょう。

 バロックの音楽を本当に理解(聴く・知る・比べる)しないうちに、下手なことは教えないほうが無難でしょう。まず、すべての音を、奇麗に、ころばず、同じ音量で、弾かせるべきです。フォルテがついていればすべてフォルテで、ピアノがついていればすべてピアノで、という風に。

 バッハは1750年になくなりましたからバロックの最後の時代の人であり、次の時代の音楽を予測した人でもあります。ですから、バッハだけを勉強してもバロックを語ることはできません。バロック時代を知るためには、その前のルネッサンス音楽(1450年頃〜1600年頃)との比較も必要となるでしょう。どこが「ルネサンスに比べてバロック(いびつ)」なのかということを。バロック以降についてはご承知の通りです。そして、新しい時代に入ってから「ピアノもフォルテも自由に弾きわけることのできるチャンバロ」=ピアノフォルテ、つまりピアノが出来上がったことはご存じの筈ですね。

2 ピアノでバッハを弾く?奇妙だね   【第2部の目次に戻る】

 バッハの作品をピアノで演奏することがよくありますね。バロック音楽は、それ以降の時代の音楽と作曲の方法や音楽の構成が異なっているから注意が必要です。バロック様式というものがあって、それを理解しないまま、ピアノで演奏すると奇妙になってしまうからです。バロック様式を代表する楽器がチェンバロとするならば、バロック以降の音楽様式を表現する楽器はピアノということになります。つまり、バロックをピアノで演奏するということは、一時代前の様式の曲を新しい様式の楽器で演奏するということになりますね。逆の例を考えてみると良いでしょう。例=ブラームスをチェンバロで演奏する=新しい様式の音楽を古い様式の楽器で演奏する、考えただけでも奇妙ですね。「バッハをピアノで演奏する」ことを”考えなし”に行えばただ奇妙なだけ、ということになります。日本でのバッハのピアノ演奏は、奇妙なものだらけです。バッハをピアノで弾くことを奇妙に思ったことはありませんか? その人は正しい認識をもった人だったのですね。でも、ピアノでバッハを弾くというのがこの章の目的ですから、奇妙にならないようにしなくてはなりません。最悪なのは、自分でも判っていないのに生徒にバッハを弾かせようとする人々ですね。

 どうすれば良いでしょうか。バロック様式を理解してしまえば、難しいことはないと私は考えます。なぁんだバロック音楽ってこんな音楽なんだって判かってしまえば良いのですから。

 

3 さあ、あなたが勉強をはじめる番です   【第2部の目次に戻る】

各自、自習をしていただくことにしましょう。それが、あなたを前進させる唯一の道だからです。あまり精根を込める必要はありませんから、ひと通り本を読み、ひと通り音を聴いてください。そうして、練習に入りましょう。

(1) 参考書を読む。

  皆川達夫さん(音楽学者)の「中世・ルネサンス音楽の楽しみ」と「バロック音楽」(いずれも講談社現代新書)の2冊を、順番に読んで下さい。たくさんの作曲家の名前や様式の名前が出てきて混乱するかもしれません。そんなものは、学者になるわけではないので、記憶する必要はありません。斜め読みをする気持ちで、読み流してみてください。もちろん、ピアノのピも出てきません。他にも教科書はあるけれど、皆川達夫氏がとりわけ好きという訳ではないけれど、一般マニア向けのこの本が、とりあえず宜しいと思います。もっと、勉強したい方にはもっと良い本を紹介して差し上げます。

 音楽の歴史の中には、様式からみて大きな変化が何回かおこります。この変化を区切に音楽の時代を区別すると、ルネサンス以前ルネサンスバロックバロック以降現代音楽、の5つに分けられます。ピアノ音楽の時代は、4番目の「バロック以降」に属していますね。それぞれの様式は完全に確立されていて、どれが秀れているとか、どれが進化している、などとは比較できないものなのです。もし、音楽が進化してできあがったとすれば、現代音楽だけをやればその前段階の音楽なんて勉強しなくてもできそうなものですが、そうではありませんね。それぞれが完成された独自の様式であり、それぞれに美意識も異なっているのです。

 バロックを知るには、バロック以前、つまりルネサンスをある程度知っておかないと何がバロック的であるかについて本質的な理解ができないと先に書きましたね。バロック以降については皆さんの方がよくご存じでしょう。上に掲げた本を読むことによって、ルネサンス(バロック以前)・バロック・バロック以降(皆さんの知識)というバロックを挟んで3つの様式を眺めることができるでしょう。そのような積りで読みながしてみて下さい。時間的に余裕のある方は大学時代に使用した教科書類(音楽学や音楽史など)をひろい読みしても良いでしょう。

(2) レコードを聞く

 バロック時代の楽器で演奏したものならば何でも良いですから沢山聴いておいてください。BGMで結構です。もし、CD を新たに購入するのであればチェンバロで演奏したバッハが良いでしょう。

 バロックを勉強するにあたって最も聴いてはいけないのは「ピアノで演奏したバロック音楽(バッハ)」です、きっと訳が判からなくなるでしょうから。何故ならば、「当時の様式を再現していると思われる演奏」を聴くということがポイントであるからです。様式を再現しやすいのは当時の楽器を用いた演奏ですね。そういうものをなるべく沢山聴くようにしましょう。そうすると頭では理解できない部分も耳から自然に判かってくるからです。鍵盤楽器のみの演奏よりも、アンサンブルや声楽を聴いた方がより総括的に聞取りができるかもしれませんね。バッハのブランデンブルグ、カンタータや受難曲など後で役にたつでしょうから、購入しても決して損にはならないでしょう(当時の様式を再現しているものを選ぶこと)。無伴奏ソナタは、理解が難しいので−音楽の構造も分りにくい時もあるし、演奏が古式にやっているのか、ロマンティックにやっているのか、の判断が難しい−今は避けることにしましょう。

(3) 調べる

 音楽辞典や教科書などで次の事項を勉強して下さい。

a 通奏低音(大学時代の和声法の教科書に載っている):数字付き低音と載っているかもしれません。バロック時代の鍵盤楽器奏者にとって不可欠な技術だったこの数字付き低音、今でもオルガン奏者やチェンバロ奏者は当り前にこれをやってのけるのですヨ。通奏低音というものの存在を知ることはバロックを理解する上で大切なことです。

b 平均律と純正率:シュッツやバッハがわざわざ平均律の鍵盤のために書いた作品がありますね。では、それ以前はどうしていたのでしょうね。

c 旋法と調性:長調や短調はどこから生れてきたのでしょう。

d バロック時代に用いられた楽器:チェンバロとハープシコードとクラビコードは何が違うのでしょう。その他にもガンバとかバロックオルガンとか後世では用いられなくなった楽器をさがしましょう。

e 形式:ソナタ形式、ロンド形式とかの形式です。どんなものが、どんな時代に用いられましたか。

(4) 絵画と建築と文学を調べる

 音楽でいうバロック時代を皆川氏のいう1450〜1600年として、その時代に描かれた絵画や建築物には、どんなものがあるでしょうか。余裕があればしらべて下さい。バロック建築とバロック音楽に何か共通したものがあるでしょうか。その当時の文壇にはどのような人がいたのでしょうか。

(5) やっと演奏の練習です。

 「全く音量を変えないで(全ての音の大きさをそろえて)」インベンションを弾く練習をして下さい。フォルテで弾き始めたら、最後まですべてフォルテで通すのです。アクセント、クレッシェンドやデクレッシェンドをまったくつけずに、です。音量を変えず、気持を入れ込まず、ただひたすらに指の練習と思って、ハノンだと思って、インベンションをやって下さい。原典版の楽譜に強弱記号がついていたとしても全く無視して下さい(注釈版は使用しないほうが無難です)。つまり、ピアノでもって、チェンバロのように弾いてみようという訳です。

 ところが、この練習はなかなかに難しいようです。自分流のバッハができあがっていますから、何もつけないで弾くことは、それ相当の集中力が必要です。しつこいようですが、長い音も短い音も、テーマも何もすべて同じ音量ですよ。アーティキュレーション、フレージングなども全く無視するのですよ。はじめの間はトリルも不要です。もし、うまく練習ができなかったら、電子ピアノを使うといいですよ。タッチレスポンスをOFFにしたり、ハープシコードの音色を選ぶと、強弱がつかないから。この練習の中から、バロック以降の音楽にはなかった美の世界が拡がりはじめたら、もうあなたは次の段階に進んでも良いことになります。

(6) 比較をしてみる。

 何曲かバロック音楽を聴いたところで、バロック音楽が古典派やロマン派とどう違うのかを、一度考えてみて下さい。判からなければ、また聴く。そんなことを繰り替えしてみてください。確実な言葉でその違いを表現する必要は全くありません。バロック音楽はなんとなくこんな感じ、ロマン派はこんな感じ、といった比較で十分です。自分で違いを見付けるという作業を、始めていて貰いたいのです、できれば。それは、後の理解をスピードアップさせてくれるでしょうから。

4 バッハをピアノで弾くことの本当の意義? 【第2部の目次に戻る】

   −頭で考えるためのヒントとして−

 ピアニストの中には、「私は私自身の音楽性を信じているから、バッハだってドビュッシーだって平気だわ」といって、どんな曲も自分の感性だけで演奏してしまう人がいます。何でもかんでも古典派またはロマン派風に演奏しているにすぎないのですが、本人は気がついていません。これは客観性を欠いた主観のみの、一人よがりの演奏と言わざるをえません。時代によって美の感覚は異なっています。平安時代の美人と現代の美人とは随分違っている、とよく言われるのもよい例でしょう。現代の美意識で「平安時代の美人は美人にあらず」と称えたところで誰も聞いてはくれない筈です。同じように異なった美意識で演奏をしても(=様式を誤ったまま演奏しても)全く奇妙な演奏になってしまい、誰も聴いてはくれないでしょう。それぞれの時代の美意識を支えているものが「様式」なのだと考えてみると、様式を知る、守るということがどんなに重要であるかを理解しやすいかもしれません。今まで理解してきた様式とはまったく異なった様式については、勉強してゆくしかありません。

 ショパン風、ベートーベン風という言葉遣いがあります。つまり個人的な様式というものが存在していて、それをそんな言いかたで表現するのです。もしも、そこから外れた演奏をすると、ショパンというよりもベートーベンのワルツみたいだね、と評されてしまいますね。これは大方の人が認識している様式、あるいは「らしさ」であって、客観的なものの見方といえるでしょう。しかし、今度は逆にそればかり追求しすぎると、ベートーベンらしくはあるけれど誰が演奏しているか判からない、といった現象が生じます。演奏家の顔が見えてこない、と言われます。主観性を欠いた演奏ということになります。どの時代の作品を演奏する場合にも主観と客観をうまくバランスさせる必要があります。

 どうしたら主観と客観とをバランスよく組み合わすことができるのでしょうか。残念ながら答はありません。しかし、失敗に陥らないヒントはあります。それは客観性について常に勉強を怠らないことなのです。自分の主観性(個性)はそうたやすく失われることはありませんが、客観性はついつい忘れてしまいがちですね。特に、様式を知らずに演奏に入ってしまったり、形式を理解せずに練習に入ったり、という人たちをよく見かけます。失敗しないためにどんな勉強をすれば良いのでしょう。それは、「その時代の(あるいはその作曲家の)様式を再現している演奏を固めて聴く」ことが最も確実で、早い方法です。その過程で、時代々々の(それぞれの作曲家の)様式をつかまえていくのです。時々、本を読んだり、人に話しをしてもらえれば理解(頭と心)は楽になるでしょう。その後、様式美、客観性をどの程度に演奏に加えていくか、あるいはどの程度主観性を押し出してゆくかを、考えていけば良いのではないでしょうか。

 問題となるのは、難しいのは、異なった時代の作品を別の時代の楽器で演奏する時です。あるいは異なった時代の様式を取りいれて作曲された作品の演奏も問題ですね。ひとつ例をあげましょう。謡曲の「高砂」をそのままの形で吉本新喜劇でやるとどうなるでしょう。謡曲の美意識と新喜劇の笑いの美とはどう考えても一致しません。最初にあげた「私は私自身の音楽性を信じているから、バッハだってドビュッシーだって平気だわ」の人と同じです。滑稽です。様式や美意識が全く異なるものを組み合せても奇妙なだけです。しかし謡曲のもつ様式を完全に把握した上で、それをデフォルメし、その表現形として吉本新喜劇風にしたてるとしたら、これはさぞかし面白い見物となるでしょう。バロック音楽をピアノで演奏する、というのはこの例と全く同じであると考えられますね。そしてこの場合にも、2つの異なる様式(バロックとバロック以降)をドッキングするというプロセス(デフォルメと表現形)が必要です。しかもバロックの様式とバロック以降の様式の違いを十分に理解した上で、のことになるのは当然ですね。ふたつの時代の美意識に対する客観性と、それらをドッキングする主体であるあなた。これは、さぞかし面白い演奏になるでしょう。

 バロックをバロックでやりたいのなら、人はピアノなんかを選びません。チェンバロを選びます。ふたつの様式のドッキングという主体的な行動を取りたくなるからこそ、ピアノでバッハをやりたくなるのです。そういえば、若いピアニストたちはあまりバッハを録音しません。やや老いてからバッハの演奏をレコードにするようです。このあたりにも、何かを感じますね。40歳頃がその変化が見られるころかしらん。ピアノでバッハをやりたい、とピアニストが言い始めることを私は大変嬉しく思うのです。そこに一段と深い音楽の世界に踏み込んだ音楽的な主体性(主観)が感じられるからなのです。ドッキングの初歩は、客観100%・主観 0%の所から始めては如何でしょうか(ここに音量を変えずにインベンションを練習することの意義があります)。だんだん慣れてきたら主観の部分を増やしてゆくのです。

 モーツァルトはバロックの音楽も知っています。バッハの亡くなったのは1750年、アマデウスは1756年生れ。 バロック風の作品もたくさんあります。しかしそれをバロックとして演奏したのでは全く面白くないでしょう。あくまでも古典派として演奏してこそ面白いのでしょう。シェーンベルクがルネサンス風ポリフォニーで曲を作ります。でもそれをルネサンスでやれる筈もありません。でも彼はルネサンスを意識しているのです、様式として。演奏する側も心の中にルネサンスを意識してこそ客観性があると言えるでしょう。そして現代曲のもつ美意識を共有して、それから自分の主観を加えてゆけば、きっと良いシェーンベルクができあがることでしょう。このように異なった時代の様式を取りいれて作曲された作品を演奏する時にも−つまり後の時代の人が前の時代の様式を取り入れるということになりますが−ふたつの様式を心と頭の中でドッキングさせる必要があるでしょう。これは、あなたがそれらの聴手である時にも重要な事ですね。聴手も知らないと判からないものね。

 音楽を行なうということは、正に主体的な人間の活動であるといえましょう。演奏するということは、必ず聴手が存在します。つまり、演奏者と聴手という組み合わせは、切り放せない関係ですね。そこに客観性の重要性がでてきます。演奏者と聴衆の間には、ある共通の美意識が存在しないことには、お互いに理解など生じえないからです(日本の演奏会場では少し難しいことですが)。一人よがりでは鼻歌になってしまいます。そのへんがむつかしい所です

 共通の美意識ということであれば、作曲家と演奏者の間にも必要になることはもうお分りですね。作曲家バッハと演奏家のあなたの間に共通する美意識がないことには、演奏にも何もあったもんじゃありませんからね。勉強の大事さが、本当の意味でおわかりになってきたご様子。安心しました。

 さあ、問題は演奏だけにとどまることではなくなります。自分自身の音楽の楽しみとも関係してくるようです。音楽大学で教えて貰ったのは「バロック以降」と「現代音楽」のはしり(ドビュッシーなど)が主なものだったのではないでしょうか。でも、それはそれとして、自分自身で広い音楽の世界を楽しんでみませんか。住み慣れた時代から「家出」して、バロックや、もう少し遠いルネサンス位まで行ってみませんか。ミイラ取りになってしまう危険性がないとは言えないけれど、完全に確立された音楽の世界がそこには広がっています。ルネサンスが進化してバロックになったのではない、バロックが進化をして古典派になったのではない、それぞれが完成された様式美に、触れてみませんか(演奏にも役立つもんね)。 

 

5 注釈本は見本棚にならべてある陳列品!!  【第2部の目次に戻る】

 これまでにたくさんの注釈本がでています。現在のバロック音楽の取らえかたからすると、奇妙なもの(チェルニー版などその典型ですね。しかも未だに後生大事に用いている人も少なくないというこの日本!)もありますね。いづれにしても、注釈本は「チェンバロ音楽とピアノ音楽の融合」をする場合の「見本」に過ぎないのです。つまり、注釈家がどのようにバロック音楽を取らえ、理解し、そしてまた、バロック以降の音楽をどのように取らえて、それらをいかにデフォルメし融合していったかの、ひとつの結果(つまり見本)なのです。チェルニーも、彼の時代の「バロック観(客観)」に基づいて、それに彼の主観を加えたものですから、価値のないものと断定はできませんが、情報量の少なかった彼の時代のバロック観は今から考えれば、奇妙ではありますね。

 ですから、ひとつの注釈本をみてそれを正しいと信じるのではなくて、「ああ、この人はこのような方法で融合(客観+主観)を行うことを奨めているのだな」と思うことが妥当な訳です。従って、バロックの音楽をどのようにその注釈家がとらえているかを理解することが最も大事で、一字一句に注釈通りに(スラーやスタッカート、強弱、軽いクレッシェンドなど)忠実に演奏する必要はないのです。特に、それらの記号を子供たちに強制するのはナンセンスですし、拷問に等しいでしょう。まあ、テクニカルな指の練習という意味では用いれるかもしれませんがね。それなのに、何が何でも注釈本の譜面通りに弾かせたがる教授がいる、ピアノ教師がいる。アノ子はXX版を使っているのに、指使いが楽譜と異なっていた、というようなコンクールの講評まである。皆さんは、そんな馬鹿なことはもう継続しないでください。

 答をまとめるとすれば、注釈本はとりあえずどれでも良い、ということになりますか。実際の自分の演奏には、結局はどれも使えないのですから。あくまでも陳列棚に並ぶ見本なのですから。デパートの食堂のショウウィンドウに蝋でできた陳列品(見本)を見ながら「あれと同じスパゲッティーを下さい」と注文して、本当に蝋でできたスパゲッティーが出てくれば皆怒るでしょう。本物のスパゲッティーが食べたいもの。注釈本を一字一句そのまま演奏しようというのは、蝋でできたスパゲティーを厨房で作ろうとするのに大変よく似ていますね。ここまで読んでいただいた皆さんは、本物のスパゲッティー、本物の食べれるバッハを作っていただけると信じています。

 でも、自分自身で、楽曲分析をすることはきっと大変なことでしょうから、注釈本や解説書を参考にすると良いでしょう。楽曲分析と聞くとそれだけで頭が痛くなる人もいるでしょう。でもね、曲の理解ということだけなんです。楽譜を本当の意味で読んでくださいということなんです。ただ、バロック以降とは曲の作り方が異なっているので、バロック以降の曲の理解しかできない人は少し勉強をしてください、というだけなんです。だから、最初から楽曲分析の教科書を読むという方法もあれば、バロック時代の演奏の固め聞き(ただし当時の様式を再現したものに限りますが)という方法もあるのです。要は、「バロック様式」がわかってしまえば良いことなんですね。

 注意点は、バロックを本当に理解していないくせに本を書いている人がいるのです。あるいは融合後の音楽ばかり強調する人がいるのです(ピアニストの書き物には多い)。できれば、オルガニスト兼ピアニスト(オルガンもチェンバロもピアノも本当に弾ける人;ブーニンなんてありゃ駄目だ)が書いたものがあれば、いいでしょうね。変な書き物を頭から信じていては結局、回り道です。それは分析を「バロック音楽の取らえかた=バロック様式」でもって分析をするか、「バロック以降の頭脳」で分析するかで、結果が当然異なってくるからです。書籍はある程度参考にしながら、最終的には自分で曲の理解せざるを得ないのですから、あまり楽曲分析ということであまり頭を悩ませないで結構だと思います。

 ひとつ提案しましょう。バッハの曲を1曲決めて(シンフォニアでもインベンションでも)、原典版を10枚位コピーして、鉛筆で自分自身の注釈をつけていく練習は、演奏の練習と平行させると、とても良い勉強になります。注釈付けの作業は、決してピアノの前ではなく、机の上の作業としてください。1曲につき、少なくとも2〜3通りの自分自身の注釈版(見本)ができるといいですね。その結果は、現在の自分のその曲に対する理解度、バロック音楽に対する理解度をそのまま表現しているということになります。日付をつけて、保存してください。何日かたってまた同じ作業を繰り替えします。この作業は、学者がするような楽曲分析に替わる大事なステップでもあります。アーティキュレーションやフレージングを色々変えてみるのです。少しわかるようになったら、イタリア風協奏曲なども良いでしょう(バロックの協奏曲を理解してからでないと駄目だけれど)。

 

6 ピアノで弾いたバッハをレコードで聴く? 【第2部の目次に戻る】

 バッハのピアノ演奏は沢山あります。同じ曲でも、いろんな演奏をしているので、どれが本当に良いのか迷ってしまう程ですね。特に演奏会の前に悩んでいる時に、参考になりはしないかと色々聞いてみるけれど、かえって混乱するばかり。これは軽い感じだし、これはクレッシェンドが強調されていてバロックではなような気がするし、これはネチっぽいし…………。

 答は、注釈本と同じような理解です。つまり、そのレコードの演奏家がどのようにバロックを理解し、どのようにピアノという楽器の特性を理解し、どのようにふたつの時代の音楽を融合して、新しい音楽の世界を作りだしているのかを、聞分け、そして楽しめば良いのです。言葉で書くと難しく感じられるけれど、それが普通に楽しめるようになるまで、すぐです!

 タッチがいいとか、音が奇麗だとか、などということよりも、どんな風にバッハを取らえているか(客観性)、そのバッハに対してどんな風に自分自身をぶつけて、溶け込まさせているか(主観性)を聞くことはそう難しいことではありません、バロックを知っていさえすれば。

 ただ、腹がたつのは、ろくにバロックも知らないくせに、あの人のバッハは良い、あれのは駄目だ、などと宣う評論家、ピアニストそしてピアノ教師たち。ただ、古典派、ロマン派で聴いているに過ぎないのです。もう、お分りでしょう。第1部でも書いた通り「音楽を行なう」というのは演奏であり、と同時に聴くことでもあるのです。

 はじめに書いたように、チェンバロで演奏したバッハをもう一度聴きなおしてみましょう。そうして、あらためて、ピアノ演奏を聴いてみましょう。ね!難しくないでしょう。その人がどんな風にバロックを理解し(あるいは全くバロックを知らずに)、どんな風に自分を出しているか、あなたにも判るでしょう! そして、そのレコードを楽譜化すれば、またひとつの注釈本のできあがりであることは、もうお分りですよね。

 

7 ピアノは打楽器?   【第2部の目次に戻る】

 チェンバロの音を沢山聴くと、またピアノの音色を聴きたくなってくる時もあるでしょう。同じ鍵盤楽器の仲間なのに、全く別の楽器ですね。他の楽器を知ると、自分の楽器を改めて考えなおすこともできて、良いですね。

 ピアノの特性を考える時、ピアノを鍵盤楽器とのみ理解していては間違いを生じます。鍵盤のある楽器にはどんなものがあり、どのように音を出しているか考えてみましょう。ピアノ、これは言わずと知れたこと。でもちゃんと考えましょう。1〜3本の弦をフェルトのついた金槌(ハンマー)でぶったたく。つまり、打楽器の要素あり、ですね。チェレスタ、これはピアノの弦の代りに鉄琴を並べておいて、やはりハンマーで叩く。これも音の出方は打楽器。つまり、ピアノやチェレスタは木琴や鉄琴、ビブラホーンと同じ仲間ですね。それぞれに特殊効果を狙って各種のペダルが付いていたりします。音階にそって並ぶ弦をバチで叩くという楽器には、鍵盤のないものもありますね。

 チェンバロ(ハープシコード)はどうでしょうか?これは爪で弦を引っ掻く(はじく)楽器、そう撥弦楽器です。三味線、マンドリン、ギター、ハープと同じ仲間でしょう。ただし、チャンバロの場合は鍵盤機構(ピアノのハンマーの代りにひっかき針のついた棒を用いる)を使うので強弱を弾きわけることは不可能ですが、ギターの仲間は直接指またはバチではじくので強弱が思いのままですね。クラビコードは、弦をつっつく楽器。こんな楽器は他にあるかしらん?

 オルガン(勿論、パイプオルガンのこと)には色々な音の出しかたがありますが、ここでは簡単に笛(フルートと同じ)と考えましょう。リードオルガン(足踏み式のオルガンと思ってください)はこれはハーモニカと同じ原理です。

 まだまだ、鍵盤楽器があるかもしれませんが、ピアノを鍵盤楽器と言っていては間違いだということが分ります。ハンマーで叩くもの、つっつくもの、笛のようなもの、ハーモニカのようなもの、と色々あるのです。笛やハーモニカの類は風を送っている間は音は鳴り続けますが、打弦楽器、撥弦楽器は次第に音が小さくなります。キーを押えている間はダンパーがはづれているので、少しは鳴るけれど。そこで、同じ音を長く伸ばしていると同じ効果を上げるための演奏技術が生まれてくる。そう、バッハにつきもののトリル。すべての装飾音ではないけれど、長い音を鳴りつづけさせるためのトリルは意外と多いですね。チェンバロだから、生れてきたと考えても良い位です。人によっては、ここのトリルはこのように奏しなくてはいけない、等と本質的ではないことに神経を尖らせていますけれど、おそらくチャンバロに触ったことのない人がそのようなことを言うのでしょう。バッハ自身にしても、教育用にアアだコウだ、と書いていますが、あれも見本だと僕は思います。あれほどまでに即興的な時代に、こうでなくてはならない、と定型的な装飾を規定してしまうのはどう考えても「ちゃんちゃら可笑しい」ことです。

 さて、次はピアノの本質を考えることに戻りましょう。他の鍵盤楽器ではないピアノ。その本当の良さは、他の楽器にはないもの、です。勿論、他の楽器にはピアノには無い良さがあるのですが。ピアノの本当の美しさは、どこにあるのでしょうか。ピアノしか知らないから、等と言い逃れしてはいけませんよ。だって、子供たちにピアノの美しさを教えているんでしょう?ピアノの良さはなにですか?答は自分で見付てください。いろいろと他の鍵盤楽器を触った後で、ね。

 ピアノの美しさが思い出せたら、次にチェンバロの良さ、美しさをあげてください。

 やがて、チャンバロの曲をピアノで弾こうとするあなたは、一体何を感じていることでしょう。楽しいでしょうね。

 H.ピュイグ=ロジェ教授はピアノだけでなく、パイプオルガンも演奏されますね。つまり、彼女は少なくともピアノの良さとオルガンの良さを同時に知っていて、ピアノを弾く時にはピアノの良さを十分に引出し、オルガンの時にはオルガンの良さを引出しているはずです。また、オルガンを弾くということは、つまりはバロックやルネサンス音楽にも精通されておられる筈ですよね。きっとチェンバロもされるに違いありません。そういった中から生まれてくる音楽と、ピアノしか知らない音楽と自ずと異なったものになっていくでしょう。今から他の鍵盤楽器を一から始める訳にはとてもいきませんけれど、少なくとも勉強は致しましょう。本を読み、レコードを聞き、触れてみてください。

 

8 バロック音楽の教育と理念  【第2部の目次に戻る】

 子供たちにバッハの音楽を、いえバロック音楽に触れさせることはとても良いことです。バロック音楽と一言では言えないことは皆さんももうお分りですが、それでも、少しづつ聞かせてあげてください。ピアノ音楽しか知らない偏った音楽経験はとても寂しいことだからです。弦楽器や管楽器でも、まずはバロック以降の古典派、ロマン派から入れば良いでしょうけれども、それ以外の時代の音楽も少しづつきかせてあげましょう。

 さて問題は、インベンションやシンフォニア、コンチェルトなどをレッスンの課題として用いる時期になった子供たちの場合です。私の最も恐れることは、古典派またはロマン派の音楽の頭でもってバッハを弾かせてしまうこと、教えてしまうことです。そうですよね、皆さん。一時代前のピアニストたちは、例のチェルニー注釈本のペーター版を携えて、得意になっていました。でも、その人たちの多くは今もってバロックの本質が分らないままでいるのですから残念です。それは、長い間、バッハをロマン派で頭にたたき込まれた結果なのです。

 では、正当なバロック解釈をした注釈本を使えば問題は解決するでしょうか? 答は、いいえ、です。 今、たとえどんなに正しい(理論的に)注釈本でも、それをバイブルのように完全なものとして教えることも、似たような寂しい結果を生じるでしょう。子供にとっては、楽譜上にある記号は絶対であり、その通りに弾くように教えられていますから、結果的には「固定された」音楽となってしまう可能性が高いのです。そして、それは音楽ではなくなってしまうのです。

 では、どうすれば良いのでしょうか。私はこう勧めています。自分自身(あなた)が作成した簡単な注釈版を子供に渡して下さい見本として。原典版を購入させることは良いことですが、子供にはその楽譜を読む力がありません。ですから、子供の音楽の程度にそって、あなた自身が現在必要とおもわれる項目のみについて、鉛筆で注釈をつけてあげて下さい。ただし、なるべく少な目にすることが重要です。たくさん書き過ぎると、その技術的なことのみに頭が集中されて、バッハの音楽、バロックの音楽に触れる、ということから遠ざかってしまいます。そして、音量に変化をつけさせずに、なにしろバロック的に(チェンバロのように)ピアノを弾かせてみてください。あれがテーマヨ、今度はこれがテーマなのヨ、などの指示は行なわず(そうしたいのであれば、鉛筆でフレージングを書いておく)、なにしろチェンバロのように弾かせて下さい。

 そういった事に慣れてきたら、バロック音楽をたくさん聞かせます。つまり、子供の心と頭と手の中にバロック音楽を送りこむのです。あなたが「環境」そのものになるのです。そして、ピアノ教師ができることはきっとこれでおしまい。バロックの音楽をチェンバロではなくて、ピアノで弾くためには、心と頭の成長を待たなくてはならないでしょうから。この「おしまい」をよく理解してくださいね。

 コンクールなどでバッハの課題曲がある時には、そのコンクールは見送った方が子供のためになる、ということも考えておいて下さい。コンクールの為には、一応大人っぽく演奏するために、ある注釈本を完全に弾きこなすまで練習をさせられる事でしょう。その長い期間の練習は、子供にバロック音楽の理解のために必要な時間と余裕を奪いさってしまいます。大人であるからこそバロックを現代風にアレンジしているということを、子供はその注釈本から読み取ることなど不可能だからです。その子供は大人になっても、結局はバロック音楽を理解することができなくなり、そしてまた、バッハをピアノで弾くことを楽しみとせず、苦しみと感じるでしょう。以前にチェルニー版でバッハを練習してきた人たちと同じ苦悩を持つに違いありません。バロックは何も難しくはないのに、こうやってこれを私が今書かねばならないという状況は、まだバロック音楽が分らない、難しい、と感じている人が多いということです。この状況を子供たちには継続させてはいけません。少なくとも、ピアノ教師たちが習ってきたバロック音楽そのものが、多少歪んでいたものですから、自分が習った通りを子供たちに伝えてはいけません。コンクールにバッハを課題曲にすること自体、主催者の良識の無さ、古い頭を露呈しているようなものです。気をつけて下さい。

 

9 正しい解釈(分析)は正しい演奏になる?  【第2部の目次に戻る】

 もう10数年前に、ジャック・ルーシェ・トリオというジャズのピアノトリオがいましたね。プレイ・バッハというタイトルでバッハをジャズでやったので有名になりました。ピアノ、ベース、ドラムス、というジャズトリオで、ですよ。ジャズですから、様式的には完全にバロックから掛け離れていました。でも、大変楽しい演奏でした。それに、ジャズでやってもバッハの音楽構造は完全には消えることはありませんでしたから、当時はバッハの音楽のすごさ、に感心したものでした。

 ここにひとつの答、バッハのピアノ演奏についての答が隠れていました。つまり「最終的な演奏としては、バロック音楽として理論的に正しいかどうかは、それほど重要ではない」ということです。今まで書いてきたことと逆のように思われるかもしれませんね。

 自分の音楽観を養う上で、バッハのピアノ演奏の練習を行なう上で、バロック音楽について勉強をすることはこれまで書いてきたように非常に重要なことです。知った上で演奏するのと、知らずに演奏するのでは大きな差異が生まれてくるからです。でも、演奏となれば、客観と主観との融合ですから、ある日の演奏では、理論的に正しい演奏となり、また別の日には全く理論的ではない演奏となることもありうるということなんです。

 自分自身の状況ではなく、聴衆とも絡んでくるでしょう。聴衆がバロック音楽を知っていなければ、理論的に正しい演奏が必ずしも「うける」とは限らないでしょうし、無知な評論家たちにも悪評となるでしょう。(これまでの日本の音楽教育のバロック音楽における貧しさについては、ここで触れる必要も無いでしょうけれど;演奏家も分っていない、聴衆もさっぱりわかっていないという奇妙な演奏会をまだまだいたる所で見掛けますネ、それでも演奏が終わったら、大きな拍手、演奏家は紅潮しておじぎ、評論家は翌日の新聞で絶賛?)

 最終的な演奏としてバッハを考える場合、それがチェルニー版そのものの演奏となってしまったとしても、それはそれで勝手な訳です。演奏を行なうのは自分自身の表現ですから、何をやっても良いでしょう。ジャック・ルーシェにしても、完全にバッハをジャズとしてやっているのですから。でも、本人がバッハを、バロックを理解しているかどうかは、聴手にも判るものです。バッハを意識しながら、新しい音楽を創造しているのか、バッハも知らずにただロマンティックに弾いているだけなのかは、伝わってきます。ですからバッハを、バロックをよく勉強した上でピアノ演奏を行なってさえいれば、その時の演奏が理論的であろうが、そうでなかろうが、単なる表現形としてだけの問題、ということになります。そこで、前に「理論的正当性は重要ではない」と書いたのです。お分りいただけますでしょうか。少し難しかったかな?

 

10 バロック時代のオペラについて  【第2部の目次に戻る】

 もうご存じのように、バロック時代の芸術の特徴はその劇的な所にあると言えるでしょう。そのあたりにも一応耳を向けておきましょう。どうせバッハをやるのでしたら、他の国の人のではなく、ドイツのバロックのオペラ、手っ取り早くは、バッハの受難曲やカンタータをきいて下さい。レチタティヴォ、アリア、コラール、そういったものを聞いておくことは、あなたのバッハの肥料になること受合います。レチタティヴォのうしろに小さくきこえるチェンバロの通奏低音も好きになってくるでしょう。楽譜も手に入ればもっと楽しくなると思います。そうなんです。バロック音楽は難しくなんか決してないのです。楽しいのです。ただ、喰わず嫌い、知らないこわさ、だけなんだと思います。皆さんがポップスやジャズが分らないのも同じ理由でしょう、きっと(ちっとも難しくないのに)。

 

11 バッハをピアノで弾いてみよう!!  【第2部の目次に戻る】

 さあ、勉強がひと通りすんだ人から順番に自分自身のバッハをピアノで弾いてください。自分でも演奏を行わないといけませんものね。生徒に教えるように、自分でも練習し、そして、バロックとピアノを融合させてください。もう、私から話すことはいらないでしょう。でも、訳がわからなくなったら、お手紙ください。

※ これから皆さんは、ドゥビュッシー以降も勉強しなくてはなりませんね。古典派やロマン派と音楽の美意識が異なるからね。今度は、ご自分で挑戦してみて下さい。

 

付録 1) ピアノコンクールについて    【第2部の目次に戻る】

 最近、地方でもピアノのコンクールが盛んに行なわれるようになってきました。さて、一体このような子供たちのコンクールの開催意図はどこにあるのでしょうか。そして、どのような形で開催されているのでしょうか。コンクールという選抜形式そのものの功罪はともかくも、これを若いピアニストに対してどんな目的で行なわれているものでしょうか。考えたことがおありでしょうか。

 また、どれだけ正当な評価が期待できるのでしょうか。残念なことに地方であればあるほど、正当な評価ができているコンクールは少ないように思えます。まずは審査能力のない審査員(音楽のなりたちを経験していない人たち、本当に音楽を教えてきていない人たち)が多いこと。そして、政治性や派閥(そしてお金?)など音楽とは関係のないところで、評価が行なわれているのが現状と指摘せねばなりません。これが大人のコンクールであれば、それを納得しての上での参加、ということもあるでしょうが、若い人々にはコンクールの評価は絶対的なものと映る筈です。ピアノ教師たちもこぞって審査員の講評に耳を傾けています。本当に正しい評価を行なっているかどうかの疑問も持たずに、です。そして、最も重大な問題は、彼等はそのコンクールで本当に「演奏」をしているのでしょうか。「おさらい会」の延長線上にあるコンクールになっていないでしょうか。皆、難しい曲を簡単に弾いてのけます。でも私には「演奏」には聞えないのです。

 コンクールに出場することを勧めるピアノ教師の意図は一体何なのでしょうか。明快に答えていただけるピアノ教師に未だお会いできません。その人の音楽教育理念の中で、コンクールはどのように位置付けられているのでしょうか。私は、コンクールを否定しようとしているのではありません。子供をコンクールに参加させるのであれば、それなりの明快な理由を、確実な理念をもってそれに当ったほうが「芽をつむ」ことがないように思えるのですが、如何でしょうか。もし、出させるのならば、その弊害をどのようにフォローするか、についての答と方法を十分に得てからにした方が良いのではないでしょうか。

 

付録 2)楽譜の読み方について   【第2部の目次に戻る】

残念ながら、楽譜が本当に読める(分る)人が少ないのは事実です。そう言うと怒りだすピアニストも沢山居られるでしょう。でも本当の意味で読める(分る)人が少ないのです。そりゃ音程や長さや記号の意味は知っておられることでしょうし、初見の得意な人などは見ただけで弾き始めることでしょう。でも、それは分っているのではなく、「記号を音に変えることができる」ということなんです。そして、それは楽譜を読む(分る)ことにはならないのです。 どうして読めないのでしょう。答は簡単、読み方を習っていないからです。どうして習っていないのでしょうか? 大学の先生たちも習っていなかったから教えられなかったのです。

 さて、楽譜が読めるとは一体どういうことを言うのでしょう。それは作曲者の意図がよく判る、ということなのです。ですから、楽譜が読める人にとっては、あそこの解釈は違うとか、あの人の解釈は間違っているとか、あの人の解釈は時代的に言って正しいとか、そんな風に用いる「解釈」という言葉は不必要になってきます。解釈、解釈とわめいている人に限って、まず楽譜の読めない人だと思って間違いはありません。作曲者の意図が分かっているのに、解釈が違うということはありえないのです。

 では、どのようにしたら楽譜が読めるようになるのでしょうか?これは些か大変です。基礎的な知識と音楽的な経験がどれだけあるか、にも懸ってきますし、その人がどれだけ長時間楽譜だけと共に過ごせるか、という性格にもよります。

 まず、楽譜に書かれた記号の全てに意味が見いだせるようにすることから、始めましょう。フォルテとか、ピアノとか、スタカートとかの記号です。そんな意味は知っているよ、とあなたは言うかもしれません。それではもう先はありません。全ての記号には、他の言葉で表現できるような意味があるのです。例えば、悲しみのためのフォルテだから音量よりも表現に気を使ってください、というフォルテであったり、嬉しさを表現するためのピアノなので少し位大きな音量になっても構わなかったり、少しテンポを速くしても良いですよ、という意味のスタカートであったりするのです。ただ、フォルテは大きく、ピアノは小さく、スタカートは切って、というだけの理解では何時までたっても楽譜は読めません。すべての記号(音符や休符も含めて)に楽典に書かれていること「以外」の意味を見付けるようにしてみて下さい。言葉を換えれば、楽譜のひとつひとつの記号にはすべて必然性(そこにその記号が存在する必要性)があって、その必然性が納得できた時、楽譜が読めたことになるのです。(勿論、記号がなくっても良いのに、老婆心の強い作曲者は必要以上に記号を書いたりしますが。音楽的に演奏すれば結果的にフォルテになるので、というフォルテもありますけれど。)すべての記号に得心するのですよ。1個も見逃してはいけません。そこにある四分音譜も全音譜も休符もアクセントもリピートもですよ。そうそう、ソナタ形式の主題提示部の最後のリピート、これがソナタ形式を楽しくさせる重要なキーポイントになるのですよ、もう気がついていましたか?

 次に楽譜全体を見わたして、どこが同じフレーズ(あるいはモチーフ)で、どこが異なっているかを、みつけて下さい。あるいはモチーフ(あるいは単位となる小節数)がどのように変化していっているかを見極めて下さい。その中で、作曲者にとってどこが最も大事なのかを楽譜に尋ねます。声楽曲であれば、歌詞(意味とアクセントとブレス)がありますから、答を捜すのは比較的簡単ですね。そうして、先程の記号の意味と照し合せながら、楽譜を理解してゆくことになります。大学であるいは楽曲分析という講座があったかもしれません。死んだようなその講座も、もともとは楽譜を読むためには必要な技術だったのですね。まだまだ、先がありますが、今回はここで止めておきましょう。それが出来るようになったら、次を提案いたしましょう。次の段階は、作曲家と話をする、ということだけ予告をしておきましょう。

 もうひとつ、肌で勉強しておくことがあります。それは、テンポの表示や、楽想の表示です。アレグロとか、ラルゴとか、アンダンテとか、ガヴォットとか、ポルカとか、勇壮に、とかは、たくさんの音楽を聞き、沢山の楽譜を読んでみてはじめて理解し、納得できるものなのです。「アンダンテの曲を、アンダンテとして演奏しているものを、アンダンテであると思いながら聴く」という作業を続けてみてください。他に方法はありません。3拍子=ワルツ、ではない場合もあることも、聞き、読み、を続けているうちに理解ができるようになります。たとえば、はやめのアレグレットとおそめのアレグロがあって、結局は同じテンポであっても、アレグロとして感じて演奏するか、アレグレットと感じて演奏するかによって異なることを知ってほしいのです。

 楽譜を読む練習になるものは、なんといっても古典派、ロマン派です。ピアノ曲だけでなく、オーケストラのスコア、声楽曲、でも何でも努力して読んでいって下さい。完全に正しく読む必要はありません。楽譜を読む練習なのだから。(ピアノ曲しか読もうとしない人は、本当の意味での音楽教育者には、到底なれませんよ。)

 そうこうする内に、今度はピアノの作品をしっかり読んでみて下さい。そうこうする内に、ソナタ形式という楽しい形式に遭遇することができるでしょう。この形式は、今ではジャズなんかに少し形を変えてみられますよね。

 

とりあえずの終りに…………      【第2部の目次に戻る】

 いろいろと書きましたから、訳がわからなくなった方もおられるかもしれません。本意は、勉強を皆さんに続けて欲しい、という一言です。どうぞ、これを「きっかけ」になさってください。できるだけ批判的に、攻撃的に綴ってみたのですが、それは皆さんの奮起を期待してのこと。ただ、ご不満や反論もあるでしょう。どうぞ、お気軽にメールを下さい。

 心配のあまり非常に厳しく綴った所は、子供たちに対する教育のこと。嘘を教えてしまってはいけないこと。子供の音楽の芽を摘みとってしまうことは、絶対に避けて欲しいこと。

ピアノ講師、それは大変で、しかも重要な職業。皆さんの頑張りを期待しつつ………………。

                                 (1993. 6. 18.)

 


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