韻律入門       満嶋 明

目次

     第1章 序文

     第2章 韻律とは

     第3章 言葉のアクセント

     第4章 学習とトレーニングについて

 


第1章 序文 

 西洋音楽、特にバロック、クラシック、ロマンの各時代の音楽を演奏したり聞いたりする時の重要なポイントのひとつとして、「西洋音楽に特有なリズム感」があげられます。それは「長い音符は強い音符」という極めて単純な事柄です。しかし、残念ながら聴衆のみならずプロの演奏家でさえ知らずにいたり、忘れていたり、日本人のリズムで事を運んでしまっているのが現状と思われるのです。日本人の感性で外国の音楽を演奏することを完全に否定する立場ではないのですが、むやみに、無秩序に、無知に、外国の音楽を日本のリズムにのせて演奏してしまうのは困り者です。

 日本の言語や音楽には「長い音符を強く表現する」という習慣は昔も今も無い(と思います)。しかし、西洋音楽(ジャズは今は除外するとしても)では「長い音は強い音である」という伝統的な習慣が文学や音楽に今も強く存在していることを認識して演奏を行い、また聞いているでしょうか。もし、そうでないとすると、演奏会場では演奏家が訳も分からず熱演し、聴衆は訳の分からないものを有り難がって黙って聞いているという、そんな滑稽なことが行われていることになってしまいます。そうならないために、もう一度ここでリズムについての復習を行ってみたいと思うのです。タイトルを入門から復習へと改めるべきですか?

 満嶋(みつしま)という日本名を西欧人の多くは「ミツシ--マ」とシを他の音より長く、そして強く発音するのをよく耳にします。シを長く強く発音するのは、ラテン語のアクセントの法則「後ろから2番目の音節」に則っているのです(なんと、彼らは知らず知らずにローマ時代からの伝統を守っているのです)。

日本人にシにアクセントをつけろ、というと「ミツマ」とシが強くなる(あるいは高くなる)だけ、と思います。同じように、日本人にシを長く発音しろ、と言っても、「ミツシ--マ」とシが長くなるだけで決して強くは発音しないでしょう。ここに日欧の歴然としたリズム感の相違が端的に現れています。拍節リズム以前にこのような相違が存在しているのです。この相違を無視しては、実は文学だけでなく音楽の勉強も形ばかりとなり、魂がいつまでも入れられないということになってしまいます。

 リズムの基本は東西を問わず言語にあるのでしょうが、言語が異なる外国の音楽をやる者には、その言語に特有で、しかもその国民が共通して持っている特有なリズム感を頭と心と体で理解する必要があります。それは同時に日本のリズムの再確認にもなりましょう。(文学の理解においても、同様のことが言えるでしょう。つまり、その言語に特有の感性を知ろうとしない限り、その言語における文学性の理解ができない、ということになるのです:この問題は「美」の理解という点ですべての芸術に当てはまることだと思います)。

 さて、視点を変えてみましょう。般若心経(色即是空空即是色の文句が収められている有名なお経)を読む時、多くは1字あたり1音節(1拍)をつけて読みますが、時折2文字まとめて1拍におさめて読む所があります。しかし、長さが半分になっても1字あたりの音の強さが半分になることは有り得ません。すべて同じ強さで読経します。日本の伝統的なリズムでは、音の長さが音の強さに反映することはないからです。そんな日本のリズム感で西欧の音楽を演奏することは本当は馬鹿げているですが、なぜか日本では何も問題は起こらない。どうしてでしょう? 実は、聴衆も日本の伝統的なリズムで聞いているからなのです。美談といえば美談であるし、悲しいといえばこの上もなく悲しい事実です。明治以来のプロの音楽家たちはいったい何を聴衆に教えてきたのでしょうか。

 ここでリズムの実習をしましょう。例としてシューマンの流浪の民(Zigeunerleben)の冒頭を用います。8分音符と4分音符の規則的な繰り返しが見られます。決して楽曲分析をしようというのではないので、気楽な気持ちで楽譜通りにリズムを手拍子で打って下さい(冒頭の4小節で結構です)。ここで注意を要するのは1段目最後の Waldes のWal- の部分についているスラーで、これは決してレガートを表しているのではなく、「スラーに囲われた音符たちを1個にまとめた音符の強さ(1個の音符としての音価)としてリズムをとる」という意味です。ここでは8分音符2個にスラーがついているので、つまり4分音符としてリズムを打ちなさい、ということになります(このスラーの読み方を知らないと、とんでもない演奏をやらかしてしまうので演奏家は注意が必要)。 

 注)譜面をお持ちでない方はこちらへ→ 流浪の民(冒頭) 

(1)タ ターン タ タ ターンタ タ ターン タ タ ターーン

   とリズム打ちした人は残念ながら不正解です。 

(2)タ ターン タ タ ターンタ タ ターン タ タ ターーン

   と、4分音符を8分音符の2倍の強さでリズム打ちした人は正解です。

当然だと言う方もおられるでしょう。でも、どうして小学校や中学校やピアノ教室では(1)のように教えているのでしょうか。音楽大学で(1)のように今でも教えているからなのです。日本の伝統を破壊しない様に、という文部省の指示(画策)かもしれませんね。

次に当該部分のテキストを見てみましょう。

Im Schat-ten des Wal-des, im Bu-chen-ge-zweig となっています。

語中のハイフンはシラブル(音節)の切れ目を表しています。全部で11個のシラブルです。音符の数と一致しています。

言葉のアクセント(強弱)を辞書で調べてみると、「弱 −弱 弱 −弱、弱 −弱−弱−」となっていることが分かります。つまり、このテキストは「弱弱」というアクセントの組み合わせを最小のリズム単位(業界用語で、詩脚といいます)とし、それを何回も重ねて作られていること(このような文を韻律文=韻文という)あるが分かりますし、シューマンも当然そのことを頭と心と体で知っていて、音楽上に忠実に(つまり、“強”の位置 = 4分音符の位置)表現しています(注:この詩行では最後の弱を省略しています)。そうです、長い音符は強い音符なのです。西欧の合唱団による演奏を聴くと、Im Schat-ten des Wal-des, im Bu-chen-ge-zweig と、華麗に演奏している(決して極端ではなく)のが、注意して聞くとよく分かります(不注意に聞くと日本人にはこのアクセント方式を無視して聞こうとするように教育されてきているので難しいと思います)。

ここに至って、韻律がいかに重要であるかをご理解いただけると思います。文学的に韻律法についての専門家になる必要は毛頭ありません。しかし、韻律というものが詩作だけではなく音楽の上でも重要なことを知って、それを音楽に反映させなくてはならないのです。声楽だけでなくインストルメントの世界にもこの「韻律の原則」=長い音符は強い音符、が何と驚くなかれ、そのまま流用されているのです(ここでジャズを完璧に除外せねばなりませんが)。声楽でもドイツリートに限りません。実はこの「長い音符は強い音符」というルールはアルプスの南から野蛮なゲルマンたちに伝えられたものだったからです。つまりイタリア文化、ローマ文化からの伝統だったといえるのです。韻律についてご一緒に考えてみましょう。

第2章 韻律とは        【目次に戻る】

 韻律は外国語でリズム rhythmus(羅)、Rhythmus(独)、rhythm(英)。 なんだ、韻律とはリズムのことだったのです。文学、音楽を問わず「規則的な循環または反復(羅和辞典;研究社)」を指します。リズムをもった言いまわしは韻文、そうでなければ散文です。文学上でリズムつまり規則的な循環または反復といえば、同じ響き(韻)の繰り返し[押韻]、アクセントの交代の反復[詩脚=拍節と思っても良い]、シラブル(節)の数や詩脚の反復[詩行]、などがリズムの構成要素となります。日本の韻文では七五や五七調といったシラブル数がリズムの基本単位となっているケースが中心となっています(例2)。あるいは「間(ま)」と表現されるリズムが存在していますね。音楽での重要なポイントはリズム、と冒頭に述べましたが、文学でも重要な問題であり、飛躍的にいえば、音楽と文学は不可分の関係にあるのです、例えそれが器楽曲であっても。

(例2)与謝野晶子      

  ああ弟よ、君死に給うことなかれ、

  末に生まれし君なれば、親の情は勝りしも、

  親は刃を握らせて、人を殺せと教えしや、

  人を殺して死ねよとて、二十四までを育てしや。

 (間違っているかもしれません、暗唱した物をそのまま書きました)

 七五調の調べは、日本人には何とも言い様のない心地よいリズムです。そうなのです、リズムとはそれを共有する人々にとっては心地よいものなのです。とすると(ここが最も重要です)、「外国語にもそれぞれ心地よいリズムというものがある筈で、そのリズムに乗って作曲が行われるとすれば、歌う人も聴く人もそのリズム、その心地よさを理解してこそ、より楽しめる」という道理になります。さて、読者はドイツリートを歌うとき聞くとき、ドイツ語世界のリズムの心地よさを少しでも知って聞いていましたか、歌っていましたか、共有していましたか? イタリア語の心地よさを理解した上でイタリア物を歌っていましたか、聞いていましたか? (私自身の答えは悲しいことにNO なのです。だからこそ、本当に勉強したいと思って勉強会の発足にいたった訳です。)

 七五調のしらべの心地よさは、本当はリズムだけの問題ではありません。言葉の意味の共有、美意識の共有などと共に論ずるべきなのですが、ここでは省略させて下さい、長くなりますから。ともかくも、記紀の時代からの文化を私たちは皆で継承し共有しているのですね(ただ、母音の数が当時より3つ減少して5つになってしまっています)。

 七五調のリズムは、続けて読んでもちゃんとリズムになりますが、いつの頃からか休符を入れて、1行あたりのシラブル数を8に整えて感じようとする様になっています(例3)。(この傾向が何時から始まったかについて、文献を教えて下さい。)大方、明治維新の頃にドイツに留学した輩の中に「強弱4詩脚の行」(後述)を嬉々として持ち帰った奴がいて、得意になって流布させたような気もします。

(例3)     
 
 三三七拍子:パパパ×パパパ×、パパパパパパパ×
 
 和歌   :ひさかたの×××、×ひかりのどけき、はるのひに×××
 
        (×を休符として捉えると、シラブル8つの拍節リズムとなる。)

 お隣の中国(日本文化の源流)ではどうでしょう。中国語では一字が1音節になっているのでシラブル数=字数という数式が成り立ちます。で、つまり1行何字という型(詩行)が生まれる。七言(1行7字)とか五言(5字)。その他にも、四六の駢体文など散文においても対句と共に字数(シラブル数)を重要視した形式も中国文学では有名ですね。

(例4)(王翰)   
 
           蒲萄美酒夜行杯   葡萄の美酒夜行の杯
           欲飮琵琶馬上催   飲まんと欲すれば琵琶馬上に催す
           醉伏沙場君莫笑   酔うて沙場に伏すを君笑うなかれ
           古來征戰幾人囘   古来より征戦にて幾人がかえる
 

 さらに中国語では、すべての漢字に4つのイントネーションのどれかを当てはめて発音する(四声:―、/、∨、\)。平たいイントネーション(―)を特に平音、残りの3つの動きのあるイントネーション(/、∨、\)を仄音と呼び、それらを反復的に繰り返すことによっても、リズムを繰り返すことができるのです(平仄法)。今、大急ぎで例4の漢詩の平仄を漢和辞書で引いた所、次のような平仄になっていて平起式の七言絶句であることが判明しました。

(例4補)                 

  蒲萄美酒夜行杯 欲飮琵琶馬上催 醉伏沙場君莫笑 古來征戰幾人囘  

  ○○●●●○◎ ●●●○●●◎ ●●○○○●● ●○○●●○◎

                       (○は平音、●は仄音、◎は脚韻)

 つまり中国の詩では常にシラブル数のリズムに加えて母音のイントネーションの繰り返しによるリズムが備わっていることになります。さらに以下に述べる脚韻法をも同時に行うという中国語(漢語)はまさに詩をつくるべくして生まれたとも言っても良いでしょう。このあたりを詩経から始めて古詩、近体詩あたりを紐解くのも興味深いと思います。

 韻を踏むという技法がどの世界にも存在していて耳に心地よいのです。辞書では「韻;ひびき、音声の末のひびき。漢字の発音の余韻の類似するもの」。だから同じ響きをもった言葉の循環または反復を行った時、「韻を踏む(押韻)」ことになります。同じ響き;日本人なら誰でも知っている、アカサタナハマヤラワ。ア段とは音声の末の響きが「ア」になる音の集り、ということを子どもの時に習いました(五十音表を考えたのは日本人ではなくインドかヒマラヤか中国かそのあたりのお坊さんだったと思います;文献を教えてください)。漢詩では行の最後の韻(脚韻)がとても重要でした。例2での韻を日本語の音読みで表すと、杯(ハイ)、催(サイ)、回(カイ)が同じ母音の響き、つまり A-I (但し1音節として)となっています。逆に行の最初が韻を踏む場合には頭韻と呼びます(例5)。

(例5)  (わらべうた)

  でんでれずんば/でてくるばってん/でんでられんけん/でーてこんけん

  こんけられんけん/こられられんけん/こーん/こーん   

 このように韻を踏むということはリズムにおいて重要であることが分かります。外国語にも韻があるのでしょうか。あるのです。それを心地よいと思った時、西欧の歌曲(リートに限らない)を本当の意味で歌えるようになるのかもしれません。

第3章 言葉のアクセント    【目次に戻る】

 韻律について考える時の必須条件として、言葉のアクセント(強調音)を考えておかねばならないでしょう。アクセントは言語によって取り扱いが異なりますから、それぞれのアクセントの特徴を知っておくことから始めましょう。

 日本語にはもともと欧米語のアクセントに見合うものはありませんね。アクセントというよりも発音の高低の差を利用して語句の区別を行っています。中国語も先に述べたように一語ごとに高低の差を持っています(平仄、つまりイントネーション)。実はフランス語や古代ギリシャ語もこの仲間であると思っても良いと選定図書に書いてありました。

 ところがラテン語や、そこから派生したイタリア語、スペイン語では母音に長短の区別があり、それによって言葉の区別が行われ、そしてリズムの基本となっているのです。さらに、アクセントとして扱われる母音は、多少とも強めに発音される。これを知らないと、歌を歌っても妙竹林になってしまいます。ルネサンス以前の音楽では更に、このアクセントを持った母音(シラブル)は他の音よりも高い音程で表されるのが常でした。つまり、長い=強い=高い、という法則があったのです。

 イタリアーノという語の「アー」の部分は長いだけでなく強く、やや高く発音しますね。ポリフォニーからホモフォニーへ、ルネサンスがバロックへ、音楽の中心がイタリアからドイツへ、と変遷する過程で、この法則の中の「高い」という部分が省略されるようになってしまうのですが、「長い音は強い音として演奏する」といういわゆる西洋音楽でのリズムの基本中の基本は、ここに、ラテン語式アクセントにこそ原点があったのです。日本の演奏家のほとんどがこの法則を無視してヨーロッパ音楽をやってしまって悲しい状況にあることを前述しました。

 さて、長い音と短い音が存在する以上それらを組み合わせることによって、リズムの最小単位が構成されることになります。例えば、長−短、短−長、長−短−短、というように。このリズムの最小単位を詩脚(言葉の歩み、という意味)と言うのです(前述)。長と短の組み合わせは幾通りも理論的には成立しますが長い年月のうちにリズミカルな心地よさを感じるための詩脚は8つに絞られてきました。そのうち、イアンボス(短長:ドイツでは ヤンブスといい弱強となる)、トロカイオス(長短:同 トロヘーウス 強弱)、ダクテュロス(長短短:同 ダクテュルス 強弱弱)、アナパイストス(短短長:同 アナペースト 弱弱強) の4つのパターンを初めに覚えましょう(カタカナの名称は覚える必要はありません、強弱とか弱強とかのパターンだけで結構です)。

 さらに、弱強弱強弱強強強強弱弱弱を加えて、合計8つほど詩脚の型を覚えておけば、大方の詩の形の理解はできます。これらは実はロマン語(ラテン語)文学をやる人にとっては重要な最低限の知識です。しかし、音楽家は文学者ではないのですから型の名前を覚える必要など全くないのであって、ただ、それぞれの型のリズム形のみを体で覚えておけば良いのです。リートのみならずミサ曲を歌う人、イタリア物を歌う人にとっても重要ですね。ミサ曲のテクスト(歌詞)を勉強した事のある人なら誰でもその美しいアクセントの繰り返し、言葉における美しいリズムに驚嘆をするのです。この美しいリズムだけでも、否が応でも信仰が深まってゆきそうな、そんな美しさです。

 さて、ヨーロッパに遅れて入ってきたゲルマン民族の言語(後にドイツ語)は長短のアクセントではなく強弱のアクセントを持っていました。さらに遅れてアングロサクソン(言語自体はロマン語をベースにしているとイギリス人たちは主張するが如何か?)も強弱アクセントの言語です。これら野蛮人たちはアルプスの南の先進国(ラテン語でcis alp :アルプスよりこちら側、つまり南側と表現します)の文化を取り入れてゆくことになります。ただし時間をかけて、「長短」を「強弱」に変える必要があったのですが。つまり ヤンブスは短長から弱強に、トロヘーウスは強弱に、ダクテュルスは強弱弱、アナペーストは弱弱強となったのです(前述)。だからといって、長短の要素が皆無になったのではありません(ここが重要です)。強弱というだけでなく、強い音は弱い音にくらべると多少長い音で発音されることは継承されてゆきます。(注:各原語におけるアクセントの問題を、こんなに簡単に片づける訳にはゆかないのですが、入門編として省略します、ご容赦下さい。)

アクセントのついた音節を強く、長く」という習慣は、音楽を考える上でも重要な要素となってゆきますし、また発音について勉強する場合にも大事です。言葉のアクセントが「長短(+強弱)」から「強弱(+長短)」へと多少の(あるいは重大な)変化をしても、音楽を作る上ではアクセントのある音節(強歩とか揚格とかと呼ぶ)は、結局、強い音=長い音として継承されてゆくことになったのです。少なくともバロック前期からクラシックを経て、後期ロマン派まではこの図式を信じ切っても構いません。この西洋音楽のリズムを暗示の内に、私に伝授して下さったのはクラリネットと合唱指揮の佐々木道也さんで、私はどれだけ音楽を楽しめたことでしょう。

 音楽上でアクセントのある音を表現するためのスラー記号のことを第1章にシューマンの例で示しました。発音においては、長母音、短母音の差(エネルギーと母音の違い)を理解する時などにこのアクセントの問題は避けて通れない事柄ですが、ここでは省略を致します(ドイツ語で長母音エーと短母音エ、英語で長母音イーと短母音イ、とは全く異なる母音であることは今なら誰でも知っていますから)。ただ、ドイツ語においても母音の長短は重要な要素であることは覚えておきましょう:ドイツ語の辞書(木村・相良でも、シンチンゲルでも)、見出し語そのもの(決して発音記号の場所ではなく)の上または下に小さい記号がついていて長音節の母音を示しています、まるでラテン語辞典と同じように。

 さて、詩脚を手に入れた我らがリートはいよいよ発展することになります。詩脚が整ったら、次は1行あたり詩脚を幾つにするか、が詩作上の重要ポイントとなります。つまり詩行の成立です。詩行の最も短い物は2詩脚(例えば、短長長・短長長の2詩脚) 、長い物で8詩脚くらいまでが詩行として成り立ちました。しかし、一息で朗読あるいは歌うための詩行ですから大部分が4詩脚、残りが3詩脚と5詩脚が殆どでした。といっても俳句の「字あまり」のような詩行(超完全と呼ぶ)あり、字足らず(不完全と呼ぶ)の詩行あり、ですべてが完全な形であるとは限りませんでしたが。

 詩脚と詩行について、少し実習(朗読)して下さい。以下は詩の一部を抜粋した物ですが、すべて日本人好みの「強弱4詩脚の詩行」で作られているものです。

 

 

第4章 学習とトレーニングについて   【目次に戻る】

 詩脚、詩行が整ったら、何行で詩を作るかが問題となります。詩節や詩形です。ドイツの詩節や詩形の大本はやはりアルプスの南から輸入され、やがて反芻・消化されて用いられるようになります。また押韻のこともあります。押韻の種類は頭韻、類韻、脚韻などと区別されますが、正式にどのような韻の種類があるのか、詩脚、詩行、詩節にはどんなものがあるのか、などは成書に依ってください。それには、会報の発足準備号に掲げた選定図書あるいは推薦図書が最適だと思われます。もうお求めになられたでしょうか?もう一度、書名を掲載しておきます。早めにご購入下さい。

選定図書:

 「ゲーテの詩とドイツ民謡 赤井慧爾 著 

   東洋出版(ISBN 4-8096-7066-X)¥2500
   内容:1.ゲーテの詩と民謡(Volkslied)、2.ゲーテの詩と歌曲(Kunstlied)
      3.ドイツの詩のリズム 4.ドイツ・リート 5.ドイツ民謡 
      付)楽譜/参考文献

推薦図書:

 「ドイツ詩を読む人のために一韻律論的ドイツ詩鑑賞」 山口四郎 著  

    郁文堂(ISBN 4-261-07154-1) ¥2472
    内容:1.詩を詩として読むために(詩と散文のちがい、ドイツ韻律論の基礎) 
       2.詩を詩として味わうために

 また、辞書を今から購入するなら、シンチンゲルの現代独和辞典(三修社)だと韻律法が付録に付いています。木村・相良の独和辞典(博友社)は古典的な詩を勉強するには良いと聞きました。

 色々な学習は図書でやっていただくとしても、文学者になる訳ではないので、教養程度の理解で結構だと思います。例えば韻の事項では本にはいろいろと解説してありますが、初歩の間は脚韻のみに注意をしておけば良いと思います。上に掲げた強弱4詩脚の例での脚韻はすぐに理解できると思いますが、問題は頭による理解ではなく心と体での心地よさの共有にあると考えています。私自身、なかなか心地よさには到達できずに悩んでいます。私のトレーニング方法を恥を忍んで書きますと、ともかくテクストを音楽(メロディー)から切り離して、暗唱(意味の表現を目指した朗読)の繰り返し、です。それから今度は、逆にテクストを全く無視して、譜面からリズムだけ拾ってゆきます。それらが融合した時に、メロディーや和音や休符や強弱記号の意味が少し解りかけた状態になるのです。それでも理解から、心地よさへの飛躍ができずに苦労をしています。心地よさの上達のためのトレーニング方法についてのアドバイス、投稿を是非お願いしたいと思います。

 今回の韻律入門はオリエンテーションにとどめて、これで終わりますが、次の機会には韻律入門の実技編として、色々な詩を紹介したいと思っています。ともかくも、ドイツ音楽、イタリア音楽をやるものにとって(カンタータであれソナタであれ=声楽であれ器楽であれ)リズムについての掘り下げた理解が必須の条件であることを考えて戴きたいと思います。そして、その理解は、頭だけでなく心と体にも必要な訳です。その理解が深まった時、感性(主観)を生かした演奏をすれば素晴らしい演奏になることでしょう。東京でなくとも、いや東京でないからこそ、演奏家も聴衆も本当の意味で楽しめるサークルを形成できたら、と夢を膨らませています。みなさんと共に私も精一杯勉強してゆくつもりです。私もリートに関しては全くの素人ですから、今回の記述にも多くの誤りがあると思います。信用せずに読み流していただいた方が良かったかもしれません。嘘の記述についてはどうぞご教示ください。よろしくお願いいたします。また、疑問、質問も事務局宛にお送り下さい。

人のためではない、ボランティアなどでは決してない、自分自身を高めるための勉強を一緒に始めましょう。みなさんのご健闘を期待しています。

                               
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