音楽家のためのキリスト教の知識 満嶋 明

 目次


(1)はじめに       【目次に戻る】

 音楽家、特に声楽に関係しておられる方々にとってはキリスト教やその信仰についての知識はどうしても必要でありましょう。宗教曲を演奏する場合、歌詞の中に聖書そのものの文句や引用が多く出てきますし、またミサなどの典礼文の理解のためにもキリスト教信仰の内容の理解が必要となってきます。

 何十年も前ですが、アメリカのアポロ宇宙船が初めて月に到着しアームストロング船長が月面に降り立ったとき、まず「In the Biginning・・・」と言って絶句しました。NHKの通訳の方は(有名な方だったのですがお名前は忘れてしまいました)「はじめに・・」と直訳のまま通訳して次の言葉を待っておられました。あっ、創世記(旧約聖書の冒頭の書)の始まり部分だ、と気がついた方も多くおられたことでしょう。アームストロング船長は感極まって聖書の始まりの文句を引用したのでしょう。が、この通訳者をはじめ、多くの日本人にはそれが創世記の引用とはわかりませんでしたから、どれだけの感動があったか、など理解できなかったと思います。同じように、宗教曲を歌ったり聴いたりする場合に、気が付かずに済ませてしまう項目が多いと思わねばなりません。特に、楽器出身の人々にとっては歌詞の内容よりも、音楽構造だけでその曲を納得してしまう傾向がありますから注意を要するところでしょう。また宗教曲でなくとも引用という形で聖書的な語句が歌詞の中に現れている場合もあるわけですから、少しづつ勉強を続けたいところです。

 キリスト教の勉強と言っても、キリスト教信者として教会に通うわけではありませんし、かと言って、客観的にキリスト教について書いた本もあまり多くありませんから、ここに少しだけ概略を述べてみることとしました。勉強の第1ステップとして頂ければ光栄です。

(2)キリスト教の成立とキリスト教信仰    【目次に戻る】

 キリスト教はユダヤ教から起こったと一般的に理解されています。実のところ、ユダヤ教とキリスト教は、なんと同じ神を「神」として信じているのです。「ヤーウェ(読み方によってはエホバ)の神」と呼ばれる神です。神は世界を作り、人間を作りました(創世記)。しかし、人間は神に対し罪を犯してしまいます。罪とは「神に服従しないこと」と理解して結構だと思います。神の存在を認めない、あるいは神の存在そのものに気がつかない、なども罪に当たると言われています。

 さて、罪を犯した人間は神と共に生活することを禁じられ、エデンの園(天国)から追放されるはめになりました。アダムとイヴ以来、人間は誰しも神様に対する罪を背負って生きることになったのです。人間は悔い改め、罪の許しを請うべく神に祈り続けました。すると、神は人間に対し一つの契約(約束)を結ばれます:「救世主(キリスト)を人間世界に遣わそう」と。

 その約束通り、神は救世主をこの世にお遣わしになりました。そして、今度は救世主自身が人間に対して、新しい約束(契約)を与えます:「私を救世主と信じる人は、皆、罪を許されるのだ」と。そして、永遠の命を与えられ、再び神と共に生きることを約束されたのです。

 神に与えられた「はじめの約束(救世主を遣わそう)」を「旧い契約」と呼び、神の子であるキリスト(救世主)から与えられた「2番目の約束(信じる者は救われる)」を「新しい契約」と呼んでいます。古い約束つまり「旧約」について書いてあるのが旧約聖書で、救世主によってなされた新しい契約つまり「新約」について書いているのが新約聖書と言う訳です。救世主(= キリスト)は、ヨセフとマリアの子、つまり、例のイエスでした。彼は旧約聖書に予言されていた事柄を次々と成就し、ついには予言通り十字架で「人間の身代わり」として生け贄(犠牲)となったのです。

 旧約聖書の時代には、農業従事者は初穂を刈り取って捧げ、牧畜生活者は生きた子羊(汚れがないという意味で)を殺して、その血を流すことによって神に誠意を示し、罪の許しを祈っていました。犠牲の「牲」は「生きた家畜」という字ですね。イエスは、人間のために自らが生け贄となって、しかも神の子でありますから「汚れのない人間」として血を流したのです。Ave verum corpus に unda fluxit aqua et sanguine と 書かれていますね。イエスのことを、神の子羊 Agnus Dei と呼ぶようになった由来もここにあります。キリスト教の信仰の原点は、1) 神に対する罪(原罪と呼ばれます)の意識、そして2) イエスを神の子、救い主と信じること、の2点です。ミサの CREDO (= I believe in God.)に詳しく述べられています。イエス・キリストという名は、名前と苗字というものではなくて、名前と職業というようなものになるわけです。

 ところが、このイエスを本当の救世主(キリスト)ではない、と主張し続ける集団がいます。本当のキリストの到来を待ち続けるのだ、と言うのです。その集団がユダヤ教です。彼らはイエスが現れた後も(A.D. anno Domini:神の年々/B.C. before Christ 紀元前)、旧約聖書のみを携えて本当のキリストが来ることを待ち望みながら日々の生活を行っているのです。イエスをキリストとして信仰していない以上、同じ神を神として信じていながら、キリスト教とは別の宗教として捉えられています。

(3)キリスト教団のその後(旧教と新教)   【目次に戻る】

イエスは旧約聖書の予言通りに、十字架で息を引き取った3日後に蘇って(resurrexit)弟子達の前に現れ、そして昇天したことになっています。残された弟子達は、神の新しい約束(新約)を伝えるために活動を始めます(使徒行伝)。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネはそれぞれにイエスとの生活を福音書という名称で呼ばれる書物に書き残しています。また、パウロ(英語読みではピーター)達はユダヤだけでなく、ローマ帝国全体にこの新しい約束を精力的に普及し始めました。ここからキリスト教が一地方の宗教から、世界的な宗教へと発展して行くことになります。ローマ政府ははじめ弾圧するもののやがてキリスト教に改宗します。権力と結び付いた教会は次第に勢力を伸ばしてゆくことになります。

 勢力を伸ばしたローマ帝国も、やがて東西に分裂してしまいます。教会も同時に分裂することとなり、ローマに本拠地を置く西ローマ帝国にはカトリック教会が、ビザンチンに本拠地を置く東ローマ帝国にはビザンチン教会(ギリシャ聖教)が生まれることになりました。教義的には同じ宗教なのですが、文化や言語の違いから次第に儀式に相違が見られるようになります。西ローマ帝国ではローマ語(つまりラテン語)が使われていましたが、やがて西ローマ帝国も崩壊しイタリア、フランス、スペインに分裂してからは、ラテン語のそれぞれの方言ともいうべき、イタリア語、フランス語、スペイン語が発達しました。未だにカトリック教会では正式にはラテン語が使われていますが、ローマ時代の発音(古典ラテンと呼ばれます)ではなく、イタリア訛りの特別な教会ラテン語(カトリックラテン)が使われています。

 16世紀になって「カトリック教会(神父)が神と人間との間に権力として存在することは不自然である」と宗教改革運動が各地で起こりました。本来の信仰は、一個の人間と神との間に関わる問題で、教団や教会が関与する必要のないものです。しかし、カトリック教会では人間が神に懺悔をするにあたって、一度神父に申告し、神父はその懺悔を神に伝えるという間接方式だったのです。また、聖書はラテン語で印刷されていて、庶民が聖書を読んで直接神の声を聴くということはできなかったのです。宗教改革運動は、各地で様々な形で同時に起こるのですが、「万人が神父であるべきだ(誰でも直接に神に祈ることが出来る):万人司祭説」と唱えたフランスのカルビンや、聖書は誰でもが読める言葉に翻訳するべきであると言ってドイツ語に翻訳したマルチン・ルターの活動が有名です。こういった宗教改革の考え方は、その時代のヨーロッパで突如に起こったことではなく、ルネサンスという大きな流れの中で起こったことを理解しておく必要あるでしょう。ルネサンスの絵画などを見ておくことも重要な勉強になりましょう。ルネサンスが起こる前のこと、たとえば新しい自然科学的な知識と聖書的と呼ばれる考え方の融合(スコラ学)などについても理解しておくと、宗教改革そのもののやルネサンスの音楽を理解するのに役立つことでしょう。

 さて、カトリック教会に反抗した宗教改革者たちはプロテスタント(反抗者)と呼ばれました。どの程度の反抗か、によってプロテスタントにはいくつかのグループがあるのですが、人間と神との間に「神父」が存在しないという点では一致しています。同じ神に対して同じ内容の信仰(原罪の意識とキリスト信仰)しているのに、司祭が存在するのを旧教(カトリックのこと)、いないのを新教(プロテスタントのこと)と区別するようになっていったのです。ただし、イギリス国教会(聖交会)は別です。ローマ教皇がすべての国の宗教権力のトップにあることを嫌ったイギリスにおいては、イギリス国王が政治上も宗教上もトップであるべきと考えて、ローマ教皇と同じ立場の教皇の位をイギリス国王が持つことにしたのです。ラテン語は用いずに英語を使います。従って教義的にはカトリックと違いはないのですが(神と人間との間に司祭が存在する)、カトリック教会にとっては反抗と映りましたから、イギリス教会もプロテスタントと呼びました。

 宗教改革の嵐はカトリック教会内部にも強い影響を与えました。権力と結びついた故の堕落から脱却し、真の伝道を行おうと言うものです。フランシスコ・ザビエルで有名なイエズス会の誕生もそのひとつだと言えるでしょうし、パレストリーナのような俗物を雇ってでもミサを盛り上げようとしたこともその一つでしょう。ただ、イエズス会などの活動は政治的(世界戦略)にも大きな意味があり、アジアやアフリカに領土を広げようという君主たちの手先にもなってしまうのですが。しかし、結果的にキリスト教信仰を全世界に広げたのはカトリック(普遍という意味です)教会と言えるでしょう。ヨーロッパによるアジア、アフリカ、アメリカの植民地化には無残な血が多く流され、その後にキリスト教が広められていきましたから何とも奇妙な気がします、この頃の歴史を見ると。広められたカトリックは、それぞれの土着の信仰も採り入れながら、それぞれの国に適した形のキリスト教として現在まで伝えられています。長崎の「隠れキリシタン」も日本流カトリックと言えましょう。

 さて、結果的に新教と旧教との2大派閥が存在するのですが、相違点は神父の存在だけで、神に対する信仰のあり方はまったく同じなのです。喧嘩するのは馬鹿げています。アイルランドで旧教と新教の間の宗教戦争が行われていますが、本当は宗教でなく民族紛争なのです。宗教戦争で片づけてしまおう、というのはどこかに政治的な香りのする説明でしょう。United Kingdom of the Great Britain and North Ireland や King of Kings の言葉から分かるように、歴史の勉強が必要になりますので、省略します。

 アルプ(アルプス山脈)の南側では(cis alp)カトリックが、北側(trans alp)では新教が盛んになっているのですが、歴史的経緯や文化的背景などを考えるとうなずけるような気もします。ゲルマン民族の大移動やアングロサクソンのイギリス侵攻も思い出されますね。詩作においての韻律法をアルプスの南から抵抗もなく受け継いだ彼らは、力を蓄えた後、cis alp のカトリックに反抗したかったのかもしれません。

 少し話は飛びますが、ルターの聖書翻訳(1517年)から400年を経た今日のカトリックのミサでは、司祭(神父)はラテン語で祈りを捧げるものの、通常はその国の言語を用いるようになっています。イタリアではイタリア語、スペインではスペイン語、中国では中国語、日本では日本語というように。ですから、現在では祈りの形として、ラテン語は必須ではなくなってきています。このことは、ラテン語で書かれたキリスト教音楽を言語で歌うべきかどうか、を考えるときの一つの要素になると思います。一方、プロテスタントの方では18世紀からイギリスでは英語を使い(ヘンデルのメサイヤなど)、ドイツではドイツ語(バッハの受難曲)がすでに使われています。

(4)キリスト教的新興宗教    【目次に戻る】

 近代、現代には聖書を用いた新興宗教がたくさん発生します。が、原罪の意識とイエスをキリストと信じることの2点が揃わない限り、聖書を用いたとしてもそれはもはやキリスト教ではありません。また、2点が揃っていても更なる教義を加えた異端的なキリスト教も有ります。統一原理教、ものみの塔やモルモン教などはこれに属するかと思われます。これらの新興宗教と従来からのキリスト教とは異なった点も多いので、西洋音楽に登場するキリスト教を学ぶときの対象としては相応しくないと思います。勿論、どの宗教が正しく、または間違っている、と言っているのではありません。宗教音楽に関しては、これらの新興宗教に触れる必要はありませんから、これだけにしておきましょう。

(5)キリスト教音楽の取り扱い    【目次に戻る】

 この項目が音楽家や聴衆にとっては一番重要なことかもしれません。どのような結論を導き出すかはそれぞれの演奏家に任される物だと思いますが、一度はこの項目に自分なりの結論を出しておくべきだと考えます。ここでは、常識的な考え方を述べておきます。

 一般的に宗教曲を取り扱う場合には旧教であろうが新教であろうが、信仰のあり方(原罪とキリスト)を理解すべきでしょう。そして、重要なことは(極めて重要なことは)、これらの音楽が一般聴衆に向けて演奏されるのではなく、ただ一人の聞き手(つまり神様)に対して演奏されるべき性格の音楽であるということです。もちろん、宗教曲を教会内で演奏することによって聴衆を陶酔させる目的(演出)を否定はしませんが、本質的には神に向かって歌われるべきことを認識しておく方がよいでしょう。日本のお寺で大きな法要が営まれるとき、何十人もの僧侶による読経(演奏?)が行われます。この読経は参列者をなにか不思議な、荘厳な気持ちにさせてくれます。意識的に演出効果として習慣化された物であるかもしれませんが、読経する僧侶たちは懸命に仏に対して経を唱えているに違いありません。参列している門徒に音楽としては聴かせていないことは誰もが知っています。(原始仏教では参列者に対して読経したのですが・・・)。最近になって、この読経(声明)を音楽として捉えて「演奏」することが行われるのですが、演奏者たちは結局僧侶なので宗教音楽の本質から離れた演奏にはなっていないのです(演奏会場でも僧侶は佛に向かって読経しているに違いないのです)。一方のキリスト教音楽も、宗教性の違いはあるにしても、もともとは「聴衆に対する演奏」などではなかったと理解しても良いのではないでしょうか? とすれば、基本的に「神」にのみ捧げられるという特殊性を理解してこそ、例えそれが演奏会場で演奏されたとしても、「宗教音楽」としての性格から完全に離脱せずにすむのではないか、と思うのです。少し回りくどい書き方をしてしまいましたが、本来宗教曲であるものを演奏会場で演奏する場合にも、神に対して捧げられた場合にはじめて本来の宗教曲たりえる、ということです。

 もし、客席の聴衆に向かって演奏しようとするので有れば、それは作られた目的に沿っていないことを認識すると良いでしょう。(それはそれで間違いでありませんし、芸術上のパロディまたはデフォルメと考えればよいと思います。ただし、キリスト教音楽というもの、キリスト教信仰という物にまったく配慮もせず、パロディともデフォルメとも認識せずに「演奏」するとしたら、まったく中途半端で、情けない話です。)

 「音楽に国境はない」などと宣いながら、指揮者もオーケストラもコーラスも何もキリスト教のことを理解していない中途半端なミサ曲というのをしばしば聴くのは残念なことと言うしか有りません。キリスト教の宗教音楽であった筈の曲が、何の認識も行われないままに、まさに聴衆に対して演奏されることが多いのです(本来の目的を失った形で)。日本の有名な歌い手が Ave Maria を、人間の聴衆相手に、自分の声量を誇示して歌ったりしますが(イタリア物専門の人に多い様です)、あれは、もはやキリスト教の歌ではなくなってしまっています。聖書を用いてもキリスト教ではない宗教が存在するように、キリスト教音楽として作曲されていても、演奏する側が信仰というものを理解していなければ、宗教音楽としての性格を失ったことになってしまいます。残念な例はほかにもあります。有名な歌い手であっても、ラテン語の歌詞の意味を知らずに、ほとんどスキャット状態で Credo などを歌うのを聞くときなどです。また、ルネサンスの合唱曲をやるのに、どれもこれも同じテンポで、同じように無表情で歌うのを見かけます。Ave Maria を歌うのと、Regina Ceali を歌うとは自ずから感情に差が出て然るべきなのですが。宗教、つまりこれも文化の一つと考えても差し支えないと思うのですが、文化を無視して自分の感性だけで演奏することの危険が実はここにも存在したのです。仏教のお経を、仏教の習慣もなにも知らずに、哲学的背景もなしにベルカントで歌い上げることと同じかもしれません。鞭声粛々〜という詩吟をベルカントでやられても気持ちが悪いだけですね。

 昔、10年ほど前ですが、パレストリーナの研究を20年ほどかかって演奏した私に向かって、「君ねえ、パレストリーナはあんなテンポじゃ間違いだよ」と言った人がいました。キリスト教、テクストなど全く考慮できない御仁でしたが、「パレストリーナ」の一言ですべての曲のテンポを決めてしまうというとんでもない人でした。彼も Ave Maria とRegina ceali は同じテンポでないと気がすまなかったのです。彼は未だにある県の合唱連盟の理事長をしていますので、合唱連盟のレベルが知れるというものでしょう。多かれ少なかれ、彼のような考え方の演奏家や批評家がまだまだ多いので、注意が必要でしょう。

 誤解しないで頂きたいのは、それはそれで間違いではないのです、もしその演奏の形態(パロディやデフォルメ)について自らの判断なり、結論なり、が備わっていたならば、という条件付きですが。自分は宗教音楽(ここではキリスト教音楽)をどのように捉えて、どのような形態で、誰に向かって演奏するか、自分は何をパロディしているのか、何をデフォルメして何を造りだそうとしているのか、などについての演奏家自身の結論を導き出しておいて頂きたいと思うのです。いえ、なにもキリスト教を信仰しなければ歌えない、といっているのではありません。理解をし、自らの結論を持つ必要があると思うのです。もし、聴衆相手に聴かせるので有れば、「ここは神に対する感謝なのだから、こう歌いなさい」と中途半端な、いい加減な指導を行っていただきたくないと思います。もし、宗教曲として演奏する気持ちが少しでもあるので有れば、キリスト教信仰についての理解と意識を持って(完璧である必要など有りません)いただければ、と思います。

 逆に、時代が新しくなって「演奏」を目的とした「宗教曲もどき」が作曲されるようにもなりました。キリスト教のテクストを使ったというだけで、「宗教曲」ではないものです。この動きは印象派が生まれる以前の絵画にも見ることが出来ますね。それらと宗教曲とを区別する眼も必要かもしれません。

(6)キリスト教音楽におけるラテン語の発音の基本的理解 【目次に戻る】

 キリスト教音楽で用いられる言語は、各国語のほかにラテン語が重要となってきます。このラテン語の発音はしばしば歌い手を悩ませる問題です。しかし、基本的には全く単純な問題なのです。それは「聞き手は基本的には神様一人」という所に答があると思うのです。つまり、どのように発音しようが、神様に通じないはずはないのです。つまり、信仰上の表現で有れば、発音に間違いはあり得ない、ということになります。これが基本的に理解されないといけません。カトリック教会は「このように読みなさい」と指示を出しているのですが、実際には各国の教会には各国語の使用を認めているわけですから、ラテン語の正しい発音については昔ほどうるさく言われていないのだと思います。

 ですから、ドイツではドイツ流の(ドイツ訛りの)ラテン語が堂々と歌われていますし、フランスではフランス訛りの、ベルギーではベルギー訛りのラテン語が教会で歌われていますが、誰も文句を言いません。平和 pace は、フランスではパーセ、ドイツ人がパーツェ、イタリアでパーチェ、ラテン語学者がパーケと読みます。日本の合唱界では「どこどこの合唱団のラテン語の発音は間違っている」というような批評がコンクール審査員によって行われるのですが、彼らは神様なのでしょうか?(笑)。長崎には今でも「隠れキリシタン」の伝統が残っていて、彼らは昔(天草四郎のころ)宣教師から伝え聞いたミサ曲を長崎訛りで歌います。要するに、問題は発音ではなく、信仰の内容(の理解)なのではないでしょうか。ここが仏教の真言(呪文)とは異なっていますね。

 現在のローマ法王庁で使われているラテン語は、実際にパウロたちが活躍していた時代の発音(古典ラテン)とは全く異なっていて、つまりイタリア語訛りなのですが、それをカトリック・ラテン(または教会ラテン)と言ってるにすぎないのです。教会ではこの方法で読みなさいと勝手に決めているのです。

 今は「死語」と言われているラテン語も7世紀頃までは口語として使われていました。さらに、口語としては死語となっても学者、聖職者、政治家にとっての通用語(文語)として17世紀まで実際に使われていたのです。今でも、動植物の学名というものはラテン語が用いられますし、そのために私も古典ラテン発音法を学んだのでした(少し前まで、私は解剖学者でした)。もともとのラテン語は厳格に発音法は決まっていて、発音に関してはなんら疑問の余地はありませんでした。実際にラテン語が公用語として使われなくなった17世紀以降、それぞれの国で独特の読み方(つまり、方言)が出来上がったようです。

 例えば、子音 v (元々は母音)にしても17世紀ころまでは、[v]ではなく[w]として発音されていました。Ave Maria はアヴェ・マリアではなく、アウェ・マリアだったのです。となると、パレストリーナやラッススの時代までは少なくとも「アウェ・マリア」と発音されていたに違いないのです! なんと、Ave verum Corpus も、アウェ・ウェールム・コルプスだったのです!ラテン語が本式に使われなくなってから、ラテン語の発音は滅茶苦茶になってきました。そして、ローマ教会は一定の「教会訛り」を制定した→これがカトリック・ラテン(教会ラテン)と言うことになったわけですね。この教会ラテンは一応は決まっているようですが、ちゃんと言語学的に伝えられていないのです。教育的立場にある神父によっても発音の指導が異なっているのです。現在のヨハネ・パウロ2世の発音を聴いたことがあるのですが、なかなか流暢でしたが、彼の発音を以て正しい発音法というのもうなずけません。

 結果的に、キリスト教音楽をキリスト教音楽として演奏する以上、間違った発音というものは存在しないという考え方で、発音なんかに憂慮することなく、一生懸命に歌っていただきたいものです。私が聴きたいのは、正しい発音での演奏、ではなく、美しい歌声と信仰心(またはそれらのパロディ)なのですから。ただ、合唱の場合には、どのような発音でも結構ですから、統一するようにすれば良いでしょう、その方が確実に美しくホールに響きますから(チェとケが同時に聞こえない方がベターでしょう)。教会ラテンか、さもなくば古典ラテンで歌うべきである、等と少し以前の日本の音楽学者たちは強調していましたが、どうでしょうか、私は疑問に感じます。逆に、デフォルメして、単なる「演奏」に徹するのであれば、ラテン語の発音なんか、もうどうでも良いことになるだ、と思います。

 しかし、発音を統一するに際して、どう読んだらよいか全く判らない人は、カワイ出版の新リーダーシャッツ(日本合唱指揮者協会編:混声版全2巻、女声版全2巻)という楽譜集を購入されると、巻末にジョーンズ簡略表記の発音記号が掲載されています(もちろん17世紀以降のカトリックラテンでの解説になっています)。とくに初心者用にかなり簡略されて書かれていますので、分かりやすいと思います。ここからスタートされると良いでしょう。昔、「宗教音楽におけるラテン語の読み方」小泉 功 著(カワイ楽譜)というのがありましたが、たぶん絶版でしょう。持っている人に借りるしかないですが、発音の知識がある人には良い本だと思います。

 しかし、音楽的に重要な問題が、もっと深いところにあります。ここでは、母音の問題とアクセントの問題を取り上げましょう。

(7)ラテン語における母音の問題    【目次に戻る】

 これはリズム的発声と言っても良い問題です。ここでは「二重母音をどう扱うか」などの問題ではありません。二重母音や子音の取り扱いは、上に述べた通り、基本的にはどうでもよいのですから。アクセントの問題、母音の長短の問題、そして母音の響きの問題です。つまり、言語の上に載せられた音楽的要素を重要視すべきだと考えるのです。今まで、キリスト教信仰のことばかり考えてきましたが、ここで、発音でなく発声の段階で音楽的な問題に立ち入ることになるのです。

 ヨーロッパ音楽の土台の一つに、言語のもつ音楽性:リズムが有ります。そのリズムを、母音のアクセントと母音の長短(つまり、強弱、高低、長短)が重要な要素を担うことになります。ですから、歌詞(テクスト)のリズムを正確に朗読できたとき、それだけで音楽が生まれてきます。特に、歌われる(あるいは人前で朗読される)ことを前提として作られた歌詞には、十分に音楽として成立するだけの美しいリズムが乗せられているのです。それは、ラテン語で書かれた宗教曲でも、そうなのです。いや、ラテン語で守られてきたことが、あとの時代になってドイツ語やイタリア語や英語などにも影響しただけのことですが。

 ラテン語の歌詞のリズムを1度でも正しく朗読したことがあれば、モーツァルトもベートーベンも、そのリズムに沿って音楽を作っていることが理解できているはずです。宗教曲で有り難いのは歌詞が決まっていて、一度勉強すれば、どのミサでも同じ知識を生かせることでしょう。これが、シューベルトやシューマンのリートとなると、すべての歌詞についてはじめから勉強しなければなりません。

 最も重要なエキソサイズは、アクセント、母音の長短を守った朗読です。子音や母音をどう扱うか、は前述の通り問題ではないのですから、自分一人で練習できます。前述したカワイ出版の新リーダーシャッツなどをみて、ともかく声に出して朗読されることを(あるいは、させることを)おすすめしましょう。「長母音は狭母音、短母音は広母音」というドイツ語や英語でさえ見られる音の違いは、ラテン語にこそ存在するのですが、そこまではとても難しいので、ここでは単にリズムとして捉えるのみで宜しいかと思います。ただ、新リーダーシャッツにはアクセントの位置は示してあっても、母音の長短が示されていません。そこで、付録として、 別ファイルに通常ミサの長音の位置を示したものを掲載することに致します。学者によって、つまり用いる辞書によって長短の位置やアクセントの位置が変わるのですが、一応の私の解釈です。間違いもあるかも知れませんが、ご了承下さい。(専門の方、チェックしてください!)。母音・子音をどのように発音するかは自由ですが、アクセント(少し高く、少し強く、少し長く)、長母音と短母音、をはっきりと区別して朗読できるように練習なさることをお奨めいたします。

 ラテン語の発音に関して、こんなに短い文で説明を終えることはそもそも間違いですが、キリスト教音楽が神に捧げられる音楽であるから発音は基本的にはどうでも良い、という説明と、ラテン語にもリズム(韻律)があるのでそれを無視していたら音楽のリズムもわからなくなる、ということを言いたかったのです。ご了承下さい。

 さて、母音に関してもう一つ、「響き」が問題となるでしょう。母音の響きは音楽様式とも関連しているからです。勿論、子音にも文化様式によって差は生じますし、語感の表現においては子音が重要な役割を果たすのですが、声の響かせ方ほどは文化様式の差を子音の差によっては表せないでしょう。少なくとも、ここではベルカントがそぐわない音楽もある、と言うことを改めて思い出していただきましょう。最近になって、コダーイの作品が日本でもよく演奏されていますし、だいぶん前には芸能山城組がバリ島のケチャックを日本人だけで演奏していました。こんな時に、母音の発声(響き)によって音楽が音楽となるか、それとも音程だけの真似事になってしまうか、ということが重要になるのですが、キリスト教音楽でも長い歴史、広い地域で作られ、歌われ続けただけに、有る程度の研究をした方が、より音楽的な演奏が期待できると思われます。グレゴリアンをやる時と、それを引用したシェーンベルクをやる時、などを例に取る必要もないでしょう。なんでもかんでもベルカントで指導する人は、さずがに少なくなってきているのだと思うのですが。この母音の問題は、また別の機会にあらためて取り上げられるべき大きな問題なので、キリスト教入門としてはこのくらいにしておきます。

(8)おわりに:    【目次に戻る】

かなり長い文章になってしまいましたが、キリスト教のこと、宗教音楽の取り扱い、ラテン語、等について、理解の第一ステップになることを希望しています。特に、器楽の人にはラテン語テクストの学習をお奨めして、この章を終わりたいと思います。

 キリスト教やラテン語の専門の方のご批判を是非、お願いいたします。

 


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